◆ 音楽・食を楽しむアメリカ南部 (Sep. 2007)
USA - Tennessee
エンターテイメント/芸術
アメリカではギャンブル(賭博)は組織犯罪の温床となったり、個人の破産、
家庭の崩壊などの深刻な社会問題の発生源と捉えられて一般的には禁止されている。
家庭の崩壊などの深刻な社会問題の発生源と捉えられて一般的には禁止されている。
しかし一定の条件の下で規制を設けて、州の管轄として許可されている。それがカジノである。
ただし先住民族であるアメリカン・インディアンに対しては連邦政府が規制を設けて
先住アメリカ人の部族の自立更生、地域社会の経済振興などのために許可されている。
ブルースと聞いて淡谷のり子とか青江三奈をイメージしないでくださいね!
お年がバレますよ♪
お年がバレますよ♪
◆ 音楽・食を楽しむアメリカ南部 (Sep. 2007)
USA - Mississippi
アクシデント/ハプニング/サプライズ
17. 焼け残った後のプランテーション
日曜日, 9月 02, 2007Coyote
1859年から2年の歳月をかけて作られたお屋敷。
ギリシャ神殿風の建物で25以上もの部屋を持ち、
当時では珍しく屋根にタンクを設けて屋敷内に水を供給するシステムまで備え、
屋上には天文台まであったという豪邸。
当時、この屋敷の建設には175,000ドルもの費用がかかったらしい。
現在の価格にして350万ドル、日本円で4億円程度かな?
ギリシャ神殿風の建物で25以上もの部屋を持ち、
当時では珍しく屋根にタンクを設けて屋敷内に水を供給するシステムまで備え、
屋上には天文台まであったという豪邸。
当時、この屋敷の建設には175,000ドルもの費用がかかったらしい。
現在の価格にして350万ドル、日本円で4億円程度かな?
当時はこんな姿だったみたい。
お屋敷ができた1961年、このオーナーはなんとお屋敷ができた2、3週間後に
34歳という若さで亡くなってしまった。
その後、この屋敷は南北戦争で連合軍に使用され、屋上の天文台は監視に使用されたり、
ポートギブソンの戦いでは病院として利用されたこともあったり。
戦後は地域の集会場としても利用されたり、あのマーク・トゥウェインもこの屋敷に宿泊し
天文台からミシシッピ川を観察したとも言われている。
そして1890年の2月、この屋敷に宿泊していた客の火のついたタバコか葉巻が
大工が残していた大量の木のチップの上に落ちてしまったという。
一説には、チップに火のついたタバコか葉巻を投げ込んだ・・・というものもあるんだけど。
いずれにせよ、そのタバコの火が原因でこのお屋敷は瞬く間に燃えてしまったのだ。
で、現在の姿はこんな状態。
ミシシッピ川沿いに面するナッチェス。
このナッチェスは1000年以上もの昔から
ネイティブ・アメリカンのナッチェス族が「王国」を築いていた。
このナッチェスは1000年以上もの昔から
ネイティブ・アメリカンのナッチェス族が「王国」を築いていた。
階級制を持ち定住していたナッチェス族、その上の階級の人の古墳が町の郊外にいくつかある。
そのひとつGrand Village of the Natchez Indiansには古墳と一緒に
当時の生活を再現した家や博物館にはナッチェス族の資料が保管されている。
当時の生活を再現した家や博物館にはナッチェス族の資料が保管されている。
ケイジャンとは17世紀初頭、フランスから新大陸に渡ってきた人たちの子孫。当時身分差別のあったフランスで貧しい農民生活をしていた彼らが本国を飛び出しカナダに渡った。新天地での新しい生活で自由と富を得ようとしていた彼らはその土地をパラダイスという意味の「L'Acadie(ル・アカディー)」と呼び、その住民である自分たちを「Acadian(アケーディアン)」と呼んだ。
(ケイジャンはアケーディアンが訛ったもの) しかし18世紀半ば、その土地がイギリスの植民地となり、フランス語を話しカトリックを信仰していた彼らはカナダを追放されたという。追放され本国に戻っても彼らは既にフランス本国とは別の言語、習慣を持ち合わせフランス人としてもとの暮らしをすることは難しかしく、本国でも受け入れられなかったという。 カナダに残った人たちは虐殺され、生き残った彼等がたどり着いたのが当時スペイン領だったルイジアナに漂着することになる。 農村出身の彼等の先祖。勤勉で働き者、カナダで漁をして過ごしてきた彼らは漁師としてルイジアナに入った。 このアケーディアン(ケイジャン)は、ルイジアナでも決して裕福な暮らしが出来たわけではない。マイノリティーならではの差別もあり、また文化・料理・音楽など独自の文化を持っている彼等。 しかしその一方で黒人や先住民族を受け入れコミュニティーで一緒に生活もしたり、結婚も受け入れられていたという。そのせいかもともと訛りの強かった彼らのフランス語は更に変化し、先祖のフランスのケベック訛りや黒人たちのハイチ訛り先住民の語彙や英語の語彙が混ざり独自の彼等の言葉を形成している。
そんなケイジャンの首都とも言うべき場所がこのラフィエットと言うわけ。
町にはこの苦難の歴史を持ち、民族の帰属意識や誇りが高い彼等に関する見所が点在する。
まずはバーミリオン・ミル。
◆ アメリカ西海岸/ハワイ(May. 2007)
USA - California
トリビア
31. Arlington West In Santa Barbara
日曜日, 5月 20, 2007Coyote
この日の夜中の便でLAを発つということで、最終日のこの日は
ハワイへ同行し、その後ルームシェアをさせていただいた
優しいMくんとサンタバーバラにお出かけ。
ハワイへ同行し、その後ルームシェアをさせていただいた
優しいMくんとサンタバーバラにお出かけ。
サンタバーバラのSterns Wharfへ。
ビーチに面した公園には露店が並び絵やら彫刻などのアートやら、
アクセサリー、手編みの帽子、キルトのバッグなど
いろんなものが並んでいて、お店を見ながらお散歩。
ビーチに面した公園には露店が並び絵やら彫刻などのアートやら、
アクセサリー、手編みの帽子、キルトのバッグなど
いろんなものが並んでいて、お店を見ながらお散歩。
オーストラリアって不思議なところだなぁ~って。
南半球にあるでっかい島。でもある意味ではすごく孤立してる。
ヨーロッパ・アメリカ・アジアと分けてついついオセアニアって忘れがちだし
時にはアジア・パシフィック(アジア環太平洋)なんて分類されることもあるけど
AUSやNZってイギリスの植民地だったせいもあって、この分類だと生活習慣やら人種も
ちょっと違うよね~~。
英語だって、文法や文体はイギリス英語なのに発音はまったくの別物だし。
南半球にあるでっかい島。でもある意味ではすごく孤立してる。
ヨーロッパ・アメリカ・アジアと分けてついついオセアニアって忘れがちだし
時にはアジア・パシフィック(アジア環太平洋)なんて分類されることもあるけど
AUSやNZってイギリスの植民地だったせいもあって、この分類だと生活習慣やら人種も
ちょっと違うよね~~。
英語だって、文法や文体はイギリス英語なのに発音はまったくの別物だし。
エリー運河( Erie Canal )はアメリカ合衆国ニューヨーク州にあり、
ハドソン川からエリー湖までを繋ぎ、五大湖と大西洋の間の舟運を可能にした運河である。
最初に提案されたのは1699年であったが、1798年になってやっと
ナイアガラ運河会社が設立され建設の準備が始められた。
最初にその一部が開通したのは1819年であり、全通は1825年10月26日であった。
全長は363マイル (584 km)、幅は40フィート (12 m)、深さは4フィート (1.2 m)である。
閘門は83箇所あり、それぞれ幅90フィート (27 m)高さ15フィート (4.5 m)となっている。
通行可能な船の排水量は75米トン (68 メートルトン)である。 エリー運河は東海岸と西の内陸部との間の交通手段として、
動物に曳かせる荷車より速く、当時の荒地を行くよりも輸送費用が95%節約できた。
派生的にニューヨーク州西部への人口移動がおこり、
さらに西の領域へ開拓の道を開くことになった。現在はニューヨーク州運河システムの一部である。(Wikipedia)
Seneca Lake沿いののどかな道をドライブしているとお腹も空いてきた。
何を食べよう、どこに入ろう、そんなことを車の中で話しながら、
私たちはCanadaiguaというSeneca Lakeの北側に位置する町にたどり着いた。
お天気もいいし、結構ポカポカ陽気だったことで私達は突如この湖畔で
ピクニックを開催することに決定!!
- 扉も壁もなくドブのような溝があって、みんながその溝をまたいで仲良く用を足す。
- 扉がない
- 汚い
それなりに覚悟を決めていたコヨーテ。
友人にも公衆トイレは汚いからなるべく外ではしないほうがいいよ~、なんて言われる。
トイレが近く、膀胱炎になりやすいコヨーテ、しかも腎結石になりやすいという
虚弱体質?の私は常に水分を沢山とってトイレにはしょっちゅう行く。
そんな私がトイレを我慢なんてできるわけない。
友人にも公衆トイレは汚いからなるべく外ではしないほうがいいよ~、なんて言われる。
トイレが近く、膀胱炎になりやすいコヨーテ、しかも腎結石になりやすいという
虚弱体質?の私は常に水分を沢山とってトイレにはしょっちゅう行く。
そんな私がトイレを我慢なんてできるわけない。
なにせ初めてのDCですがから、ポストカードやガイドブックに載っている
歴史的な名所だけでもいかないと、と意気込んでおります。
まずはジェファソン記念堂。
いよいよ Tourmobile での観光スタート。
チケットはユニオンステーションのあちこちのブースで観光ツアーの呼び込み?をしているので、
すぐに見つかります。
このバスの難点は窓があること。そして乗車客が多いこと。
なかなかGood Shotをバスから納めることはできません。
こちらはNational Gallery of Art のようです。DCには博物館、美術館がたくさんあり、
私の会社では社員証を見せると優待なり無料で入れるところがたくさんあるのですが、
なにせ時間がない時の観光で美術館や博物館へは行けません。残念・・・
ということで、ここらで一度バスを降りて歩いて散策することに・・・
桜の向こうにみえるのがジェファソン記念館、なんとも不思議な光景ですよね。
上記の写真はサンタフェにあるアメリカ最古の家。12世紀ごろにたてられたというこの家は
一般公開されているが、中はただのあなぐらのような部屋?広間?がひとつあるだけ。
最後にここを見学して中心部のプラザに戻った。
プラザにはまだまだネイティブたちが露店を出して商売をしていた。
いつもの定位置に座って商売をしているマリアは私を見つけるなり声をかけ、私もマリアの元へ。
翌日サンタフェを離れるお別れを言いに来たと伝えるととても寂しそうにして大きなハグを。
周囲にいていつの間にか仲良くなった人たちもハグして別れを惜しんでくれた。
最後だからと、この日はじっくりマリアの店でお土産を選ぶ。
ナバホラグとサンドペインティングが欲しいことを伝えると、
「ここで売っているナバホラグはいかにもお土産用のものだから
本当に興味があるのなら私があなたの為に作ってあげる。
いつか次はリザベーション内の私の家に滞在しなさい。」
サンドペインティングにはそれぞれの絵やマークに意味が込められている。
タオスからの帰り道、Hideoは「もう一か所、ちょっと遠回りになるけれど寄るべきところがある」
そう言ってHideoは車を走らせる。
どこに行くのか聞いてみると ロス・アラモスだという。
ロス・アラモスなんて言われても、教養のないコヨーテじゃどこの土地のことで、
どんな場所かもわからない。
タオス・プエブロを後にした私たちはちょっとだけタオス市内を散策。
といっても小雨がぱらつき初め、駆け足での散策。
なんとも心地が良い。
妙に落ち着き気持ちが癒される。
そしてまたなんだか不思議なエネルギーのようなものが湧いてくるニューメキシコ。
これがパワースポットと言われる理由なのだろうか?
カジノ、そしてエンターテイメントの街、ラスベガス。
眠らない街ラスベガス、いや眠らせてくれない街、それがラスベガスかもしれない。
世界中から観光客が訪れ、その数はハワイの5倍とも言われている。
そんなラスベガスも今から100年ほど前は殆ど人がいないただの砂漠だった。
このラスベガスに人が集まりだしたのは「フーバーダムの建設」が始まった1931年。
大恐慌下のアメリカは、ニューディール政策の一環としてフーバーダムを建設して
失業者に雇用の機会を与えようとした。
労働者たちが多く集まり、飲酒、ギャンブルなどが解禁となり少しずつこの街が栄え始めた。
1935年、黒部ダムの10倍もある大きさのフーバーダムが完成し、
水の確保や電力供給できるようになったが、まだこの時点ではラスベガスは2万人程度の人口しかなかった。
オバサマ3人とすでにオバサンの仲間入りをしそうな私の女4人は、
サンノゼから飛行機を乗り換えてラスベガスに向かった。
空港に到着するとラスベガスらしくたくさんのリムジンが空港エントランスに乗り付けており、
知り合いのオバサマは初めてみるリムジンに興味津々。
そんなこともお構いなしにさっさとタクシーに乗り込みホテルに向かった。
宿泊するホテルは あの噴水で有名なBellagio Hotel & Casino Las Vegas。