航海日2日目、あと1か所の寄港地を残すところとなり今回のクルーズ最後の航海日。
午前中にクルーズディレクターより下船の案内とクルーたちのお別れ会が
行われることとなっており、シアターへ向かう。
下船する港はチリのバルパライソ港。
翌日の寄港地のチリ・コキンボを含めて、チリへの入国は検疫がうるさく
動植物の持ち込みが厳しくチェックされる。
あらかじめキャビンに配布された入国カードに注意事項が記載されていたが、
クルーズディレクターからも念を入れて注意が促された。
このインドネシアン・クルー・ショーはクルーズでの一番人気のショー。
特に今回は3週間ものクルーズでゲストとクルーはすっかり仲良しに。
インドネシアという国は島がいくつも連なり、それぞれ民族、言語、習慣などが違うという。
司会者であるクルーが簡単にインドネシアの説明をしたあと
ジャワ島、スマトラ島、バリ島など、それぞれの地域のグループに分けられ
歌やダンスを披露
航海日の午後はクルーズに一人で参加している女性と、ゆっくりアフタヌーンティーで寛ぐことに。
毎日午後の3時から行われるアフタヌーンティーだが、航海日にロイヤルダッチティーと
インドネシアンティーのスペシャルデーがある。
オランダはヨーロッパに初めて紅茶を広めたお国。
東インド会社でアジアからお茶を伝えたという。一方で植民地だったインドネシアは
紅茶もコーヒーも栽培されている。
どちらにとっても紅茶文化が定着しているのだろう。
リマを後にした後は2日間の航海日。
残す寄港地はあとひとつ。あっという間にも感じられる。
この3週間のクルーズはサンディエゴからチリのサンチャゴまで、
ほぼアメリカの中央&南大陸の西海岸を縦断した形だ。
距離もそれなりにあるせいで適度に寄港地と航海日がミックスされており、
かなりゆったりと旅を楽しめる。
1日中洋上で過ごすこの日、10時半からキッチンのギャレーツアーに参加。
前回のMaasdamでは勇んでギャレーツアーに向かったら、
時差で時計を進めることをすっかりわすれていて、すでにギャレーツアーが
終了していた苦い思い出がある。
今回は時差もなく時間も問題ない!
続いて訪れたのは、ガイドのジャンさんと奥様の祐子さんのお住まいのあるバランコ地区。
ミラフローレスの隣町であるこのバランコ地区、アーチストが住む町ともあっておしゃれである。
ミラフローレスがリゾート的な高級感あるオシャレに対し、こちらはアーティスティックというか
歴史を感じさせる建物もある文化的なオシャレさ。
朝、前日と同様ミラフローレスまでシャトルバスで行きガイドのジャンさんと落ち合う。
まず前日のディナーで行くはずだった街中にある遺跡「ワカ・プクヤーナ」へ。
ジャンさんから、特に中に入らなくても外から十分見れるし、
チャンチャン遺跡などもっと大きな遺跡を見てきただろうから、
そんなに遺跡好きでなければ入場料を払う必要ないんじゃないかとのアドバイスで(笑)
外から写真を撮って終わり。
船に戻ったのは夜7:30を回ったところ。通常のディナータイムは8時から。
外で夕食を取るつもりだったが、いつも通りのメインダイニングへ。
両親は疲れてしまったようで、食後はすぐにベッドにはいってしまった。
この日は港に1泊するということで、食事を外で済ます人や、
リマでホテルに宿泊する人などもおりダイニングでもいくつかの空席があった。
親しくなったお隣のスペイン人グループもこの日は外出の様子。
ジャンさんが「いいものを見せてあげる」と連れて行ってくれたのが、海岸沿いの公園。
綺麗なグリーンの芝生に人々が寝転がったり、犬を散歩させたりしている公園だが
そこで目にしたのは・・・
そして・・・
ナスカの地上絵をモチーフに芝生に模様をいれていた。
「ナスカまでは案内できないけれど、ちょっとだけナスカを体感できたでしょ?」
とジャンさん。
ちなみにジャンさんはペルー人ではあるけれど、ナスカにもマチュピチュにも
行ったことがないという。
お次に案内してもらったのは、ラファエル・ラルコ・エレラ博物館。
18世紀にスペイン人の貴族の邸宅として造られたところに、
ペルーの古代文明の研究者であるラファエル・ラルコ氏が個人で収集したものを展示している。
邸宅というだけあって、中庭には花が咲き緩やかなスロープをあがると博物館の入り口がある。
なんとここは7世紀のものと言われるプレ・インカ時代のピラミッドの上に建てられているとか・・・
博物館には、チムー、ナスカ、モチェなど各時代の土器や黄金などが多数展示され、
しかも展示品でない収蔵品の倉庫まで公開されている。
車で旧市街に向かうが、リマの運転には驚くばかり。
車線などあってないもの、交差点には強引に車の頭を入れたもの勝ち、
車間距離など取らずギリギリまで幅寄せしたり割り込んでくる。
ヒヤヒヤしながら車に乗っているが、運転が好きな私でも
リマではとても運転はできないと実感する。
ガイドのジャンさんの案内でまずはシャトルバスが到着したミラフローレス地区を観光。
リマの旧市街から車で20分ほど海岸にむかうとある高級住宅街。
このあたりは新市街とも呼ばれ、急速に発展している地域の様子。
まずはミラフローレスにある教会。
11月14日クルーズ15日目はペルーの首都リマにほど近いカラオ港に寄港。
こちらも前日に続き貨物港への入港。
事前に情報収集したところ、このカラオ港周辺はかなり治安が悪いという。
また港もかなり大きく、港のゲートの中には一般車両はもちろんのこと、ラ
イセンスがないと入れないために、他の港のように入港できるタクシーもほとんどないとか・・・。
ただリマ辺りのタクシーは乗る際に料金を交渉するのが通例だったり、
観光客がタクシーで犯罪にあうこともあるとか、不安は募るばかり。
ワンチャコ海岸を後にした私達は、トルヒーリョの街中を通って港まで帰ることにした。
トルヒーリョの街の名は、ペルーを征服したスペイン人のピサロの故郷の名からつけられたという。
スペインに統治されていた街は必ずと言っていいほど、街の中心にプラザと呼ばれる広場があり、
その広場を囲むように街が形成されている。
ここトルヒーリョもアルマス広場(Plaza de Armas)が街の中心部にあった。
このトルヒーリョの広場はペルーで一番大きいとのこと。
地図を見るとアルマス広場と呼ばれるプラザが、ペルーのあちこちの都市で見つけることができる。
アルマスとはスペイン語で<兵器>を意味し、植民地時代に攻撃に備えて兵士達が
待機していたり、有事の際は市民の避難所として利用されることから
アルマス広場と名づけられたとか・・・だから同じ名前の広場がどの土地にもあるのかもしれない。
美味しいペルーのシーフード料理でお腹もいっぱいになったところで、
私たちはレストラン前の海岸にでてみる。
ワンチャコは夏(南半球のペルーでは12~3月)になるとペルーのあちこちから
休暇を過ごす人たちで賑わうらしい。
それもこのあたりの海流が寒流のために、夏でも比較的凌ぎ易い気温・湿度のせいのようだ。
このワンチャコ周辺の北部の海岸は波のコンディションもいいらしく、
サーファーたちにも人気のスポットだとか・・・
チャンチャン遺跡を見学後、お腹も空いてきたということでドライバーにお願いして、
地元の美味しいシーフードを食べさせてくれるところに連れて行ってくれるようお願いする。
辞書片手に片言でなんとか伝えると、ドライバーは海沿いの町、ワンチャコへ車を走らせた。
「ゴージャスなレストランじゃなくて、ローカルのレストランがいい」
とこれまた何とか伝えてみると、おじさんは海に面したレストランに案内してくれた。
太陽のワカ・月のワカを後にした私たちが次に向かったのは、ユネスコの世界文化遺産にも
登録されているチャンチャン遺跡。
こちらは太陽のワカ・月のワカのモチェ王国の時代の後、インカ帝国の時代の前の
850年頃から1470年頃まで栄えたチムー王国の時代の遺跡。
この遺跡があるチャンチャンは南米最大の古代都市といわれ、当時人口は3万人もいたとされる。
残されているこの遺跡も20k㎡にまで広がっているが、Palacio Tschudi(チュディ宮殿)のみが
開放され見学できる。
11月13日クルーズ14日目、船はペルー北部の町、トルヒーリョに寄航。
この周辺にはプレ・インカ時代の遺跡が点在しており、船のツアーではそれぞれの
遺跡訪問ツアーが企画されていたが、言葉に不安があるコヨーテ・ファミリーは
ガイド付きのツアーには参加せず、マイペースで観光ができるようにと
タクシーをチャーターすることにした。
船を降りるとここでもたくさんのタクシーが客待ちをしている。
今回のクルーズで何回かタクシーをチャーターしているうちに、直感的に
ドライバーを選ぶ術が身についたのか、たまたま運が良かっただけなのかわからないが、
この日も直感的にドライバーを選び観光をお願いする。
11月12日、クルーズ13日目は終日航海日。
この日のドレスコードはフォーマル。
毎朝届けられるDaily Programにはその日のドレスコード、船内の案内、
イベントのスケジュールのほか、トップページにはちょっとした記事が載っており、
寄港地による際はその土地の情報、航海日には船の主要スタッフ
(キャプテン・ホテルマネージャー・クルーズディレクター・コック長など)の
プロフィールなどが紹介されている。
この日のトップページには「Black & White Officers Ball」と題する記事が載っていた。
クルーズでは有料のスペシャリティ・レストランに行かない限り、どこで食事をしても、
どれだけ食べても料金は全てクルーズ料金に含まれている。
私のように食いしん坊で大食漢には最高♪
ディナーでは毎晩決まったテーブルで、決まったウェイターが担当してくれるために、
彼らも徐々にこちらの好みを把握してくれるようになり、メニュー選びでも
いろいろアドバイスをしてくれる。
クルーズ中、船内新聞で時々見つける Single & Solo Meeting の告知。
勝手に「お見合いパーティー」だと思い込んでいたのだが、
Single & Solo Meeting とは Single(独身者)及び Solo(独り旅)の人たちの
交流のための集まりだとか。
エクアドル・マンタの出港は夜8時。
早いディナータイムは17:45からのため、ゲストの中には寄港地で夕食を済ませてくる人たちも多い。
私たちのディナータイムは20時。
寄港地でローカルフードを楽しみたいところでもあったが、言葉が通じないし
船の中なら無料でフルコースのディナーが食べれるとあって、
私たち家族はいつも通りダイニングで食事。
英語が話せないタクシー運転手Marioは私たちをマンタ近くの山沿いにある
モンテクリスティに案内してくれた。
Marioはニコニコしながら、スペイン語であれこれ説明をしてくれるものの、
こちらはチンプンカンプン。
知っている単語を拾いながら彼の説明を勝手に解釈しながら適当に
「Si Si」返事をするいい加減な私。
モンテクリスティに案内してくれた。
Marioはニコニコしながら、スペイン語であれこれ説明をしてくれるものの、
こちらはチンプンカンプン。
知っている単語を拾いながら彼の説明を勝手に解釈しながら適当に
「Si Si」返事をするいい加減な私。
11月11日、クルーズ12日目はエクアドルのマンタへ寄港。
赤道という意味のエクアドル、赤道直下だから暑いと思いきや意外にも涼しい。
この日の気温も20度ちょっとだった。どうしてかと思いきや、エクアドルは比較的標高が高く、
寒流の影響もあって、1年中平均気温は24度程度という比較的過ごし易い気候だという。
マンタの港はゲートに囲まれた貨物港。
個人で観光する人は桟橋に用意されたシャトルに乗って10分ほどの
マンタ市内の中心部まで移動をし、そこから各自徒歩なりタクシーを使って観光することになる。
私たちが乗ったヴィーンダムは5.7万トンの中型船、乗客も1300人程度だから、
1週間もするとゲストやクルー、スタッフとも顔馴染みになり、船内が一層賑やかになる。
クルーズではいろんな出会いがあり、同じツアーに参加した人、朝食やアフタヌーンティーで
相席になった人、船内イベントで一緒になった人・・・
そのほかに行動パターンが一緒なのか、何度も顔を合わせるうちに親しくなった人。
そんな人たちと船内で会えば「今日は何してたの?」とお決まりの挨拶から始まり
軽くおしゃべりをしている光景をよく目にする。
11月10日、エクアドルへ向かうヴィーンダムは、この日赤道を通過した。
エクアドルの国名であるEcuadorはスペイン語で赤道(Equator)という意味。
赤道を通過するにあたって船上では赤道通過の儀式 King Neptune Ceremonyが行われた。
赤道は北半球の北東貿易風と南半球の南東貿易風に挟まれるために、
赤道付近は風が弱くなるといわれている。
大航海時代、この無風地帯には見えない壁があり通過するためには海神の許可が必要
といわれていたという。
そのために赤道通過時に海神に祈りを捧げたり、海神のご機嫌をとる行事を
行ったというのが儀式の始まりらしい。
11月10日、クルーズ11日目は航海日。
ここまで6日連チャンで寄港し観光三昧だったため、ちょっと疲れが出ていた私には
念願の航海日。
クルーズでは寄港地での観光も楽しみだけど、船上生活を楽しむのも大きな目的のひとつ。
船を楽しんでもらうために船会社側も、どんなショートクルーズにも
基本的に航海日が設けられています。
★Cruise - HAL/Veendam (2009)
Costa Rica
36. Rainforest Aerial Tram of the Pacific
月曜日, 11月 09, 2009Coyoteコスタリカの船主催のツアーは、殆どがエコに関するものだった。
バードウォッチング、トレッキング、熱帯雨林見学・・・
寸前まで何をしようか迷っていたが、前日に一番ポピュラーだと言われる
Rainforest Aerial Tramというツアーを申し込んだ。
ツアーはRainforest Aerial Tram of the Pacificというコスタリカに2箇所、
他にジャマイカ、ドミニカなどでエコツアーを展開するテーマパークのようなところに行くツアー。
バスに乗り込み、ガイドのコスタリカの説明を聞いていると30分ほどで目的地に到着。
11月9日、クルーズ10日目、7ヵ所目の寄港地はコスタリカのプエルト・カルデラ・・・
のはずだった。
しかしプエルト・カルデラの桟橋が空いていない(not a berth available)ために接岸は
プンタレナスに変更になったと連絡があった。
幸いにもプンタレナスはカルデラから20キロほど北に位置しているだけだから、
個人手配のツアー参加者も、船主催のツアー参加者もそれほどのインパクトはなかった。
港につくと桟橋には船主催のツアーバスが既に並んでいた。
桟橋の先にあるゲートの外にはお土産を売る露店が並び、ツアーやタクシーの呼び込みもいる。
船から桟橋のゲートまでは数百メートル、その間をシャトルバスが行き来している。
スペインの植民地そして独立、独立後の政治的な混乱、内戦、アメリカの介入と
波乱の歴史を刻んできたニカラグア。
1936年から1979年の43年間はソモサが親子三代で政治と国家を支配し、
私物化し、独裁政権を牛耳っていた時代。
外国から送られてくる物資や金もソモサ一家と関連企業が着服し、
不満を募らせた市民から学生運動や革命への動きが活発になれば国家警察を投じたり、
反政府活動家の暗殺を企てたりとやりたい放題していたという。
タクシーのドライバーのYervingがそんな歴史を説明しながら、町の一角に案内してくれた。
1959年7月23日、その1ヶ月前の6月22日にこの町で起きた暴動と
その際国家警察に連行された学生たちの開放を求めて、レオンの町にある
国立自治大学の学生たちが集まっていた。
その中には大学生ばかりでなく、高校生までも含まれていたという。
彼らは町のある通りにおとなしく座り込みをしていただけだったが、
そこへ国家警察が乗り込みライフル銃を放ち4人が殺され、43名が負傷したという。
その光景が「忘れてはいけない歴史」として壁画に描かれていた。
そして同じ通りには、そのときに殺されてしまった4人の学生の顔が描かれたものが・・・
ソモサ王朝時代はこんなことが全国各地でおきていたという。
政府に反対するものは構わず排除。
ソモサの力を見せつけ国民を弾圧する。
しかしその王朝を築いた大統領アナスタシオ・ソモサ・ガルシアは1956年、
選挙キャンペーンで訪れたこのレオンの町で暗殺されるが、
暗殺後も長男・次男が続いて大統領になり、ソモサ家の独裁政権は続いた。
当時ニカラグアの国内総生産の約半分はソモサ一家の系列企業やなどで
独占していたというのだから、その独裁ぶり、国家の私物化は半端ではない。
ソモサ王朝が崩壊した後も、内戦・政治的混乱が続くニカラグア。
反ソモサのサンディニスタ党首だったオルテガ大統領が数年前16年ぶり再選を果たしたが、
この先はどうなることだろう?
ただ混乱が続くニカラグアと聞いて、もっと治安が悪く危ないイメージで訪れたレオンだったが、
まだまだ途上国ではあるが観光するにはとっても魅力ある国にも思えた。
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波乱の歴史を刻んできたニカラグア。
1936年から1979年の43年間はソモサが親子三代で政治と国家を支配し、
私物化し、独裁政権を牛耳っていた時代。
外国から送られてくる物資や金もソモサ一家と関連企業が着服し、
不満を募らせた市民から学生運動や革命への動きが活発になれば国家警察を投じたり、
反政府活動家の暗殺を企てたりとやりたい放題していたという。
タクシーのドライバーのYervingがそんな歴史を説明しながら、町の一角に案内してくれた。
1959年7月23日、その1ヶ月前の6月22日にこの町で起きた暴動と
その際国家警察に連行された学生たちの開放を求めて、レオンの町にある
国立自治大学の学生たちが集まっていた。
その中には大学生ばかりでなく、高校生までも含まれていたという。
彼らは町のある通りにおとなしく座り込みをしていただけだったが、
そこへ国家警察が乗り込みライフル銃を放ち4人が殺され、43名が負傷したという。
その光景が「忘れてはいけない歴史」として壁画に描かれていた。
そして同じ通りには、そのときに殺されてしまった4人の学生の顔が描かれたものが・・・
ソモサ王朝時代はこんなことが全国各地でおきていたという。
政府に反対するものは構わず排除。
ソモサの力を見せつけ国民を弾圧する。
しかしその王朝を築いた大統領アナスタシオ・ソモサ・ガルシアは1956年、
選挙キャンペーンで訪れたこのレオンの町で暗殺されるが、
暗殺後も長男・次男が続いて大統領になり、ソモサ家の独裁政権は続いた。
当時ニカラグアの国内総生産の約半分はソモサ一家の系列企業やなどで
独占していたというのだから、その独裁ぶり、国家の私物化は半端ではない。
ソモサ王朝が崩壊した後も、内戦・政治的混乱が続くニカラグア。
反ソモサのサンディニスタ党首だったオルテガ大統領が数年前16年ぶり再選を果たしたが、
この先はどうなることだろう?
ただ混乱が続くニカラグアと聞いて、もっと治安が悪く危ないイメージで訪れたレオンだったが、
まだまだ途上国ではあるが観光するにはとっても魅力ある国にも思えた。
11月8日、クルーズ9日目、6ヵ所目の寄港地はニカラグアのプエルト・コリント。
スペインの植民地、アメリカの進出、ソモサ一家の独裁政権、そして革命運動、
内戦や政権の混乱で、国民所得も教育水準も低いニカラグア。
この寄港地では当初ツアーに参加しようと思っていたが、船で知り合った日本人女性と
一緒にタクシーをチャーターして古都レオンへ行くことにした。
船内での寄港地説明会の話ではレオンまでは車で1時間半ほど。
距離は近いけれど道路が舗装されていないために時間がかかるとの注意を受けた。
ツアーに参加したものの、手違い?勘違いによって、
別のツアーに乗り込んでしまった私たちは、本来参加するべきツアーに合流するために
ただでさえ駆け足での観光だったのに、私たちのために時間と手間を取らせてしまったうえに、
ガイドとのやり取りで他のツアー客に迷惑をかけてしまったことがどうも引っかかっていた。